タロウのD通信第42号
――――― 隣国フランス⑤ ストラスブーグその一 ―――――
週末を利用してストラスブーグ(Strasbourg=Strassburg)へ一泊で小旅行に出かけた。デュセルドルフから南に420km車で4時間半の旅行である。ストラスとは読んで字の如しドイツ語のStrasse=街道とBurg=町が語源であり、文字通り街道の町といわれている。どうしてかというとライン川とパリ-ウイーン街道の十字路であり、古くから同都市はフランスとドイツ・オーストリアとの交易の拠点であったからである。今般この街を訪れてみて今まで疑問に思っていた、EU統合の背景がよく分かった、また欧州議会がなぜストラスブーグにおかれているかもよく理解できた。今回から数号に分けてその背景を記して見たい。なぜドイツとフランスはEUとしてひとつの共同体を作るに至ったのか、この街が我々に示唆するものはきわめて大きいからである。
この街は中世にもっとも栄えたようで、その当時の遺構として旧市街の中心にゴシック様式の高さ142mを誇るノートルダム寺院がそびえている。ところで先のケルンの稿で述べたがなぜ中世の教会には高い塔が必要だったのであろうか、いろいろと考えて見たが、大きな理由はこれは教会の権威の象徴であり、高い場所は天国を示しており、善行を重ねれば天国に行くことができるといった一般的な回答がやはり一番正しいものと思われる。もっとも私が注目したいのは高い塔を築くためには高い技術とそれを建設するための資本が必要であり、それはどのようにして獲得されたかと言うことである。それを分かりやすく説明するにはストラスブーグはよい例ではなかろうか。すなわち陸上・水上交通の要衝としてフランス、フランドル=ベネルックス、スイス、北ドイツ、東ドイツ、オーストリアの物産品がこの地に集まり、また原材料が集散しここで加工され、これが産業の拡大に繋がっていったものと思われる。各地より集まった物品はここでそれぞれの顧客にうまく配送できるように区分けされ、価格が適正となるように等級付けをされた。また原材料は加工もされ、より使いやすいものとして流通された、これらの一連の商業、工業的な機能がこの街を発展させ、その結果が財力の象徴としてのゴシックドームの建設に繋がったものと思う。
それでは簡単に歴史を振り返って見よう、この街はローマ時代にはケルンと同じくゲルマン民族を監視する役割を持っていたといわれている。その後カロリング朝の時代にフランスの版図に入り、14世紀にはライン川に橋がかかったことにより、経済的に自立発展をして、15世紀には念願の自治都市となった。その間この自治都市は当時ドイツに起こったプロテスタント教を積極的に支援し自治都市として宗教的にもその地歩を固め、ドイツとフランスの両文化を並びもつ独自の都市国家としての地位を手にした。その後各地に起きた戦争のために経済力は低下し、17世紀末にフランスに再度併合された。中央集権国家として強力な体制を維持したフランスに対して、ドイツでは神聖ローマ帝国として一応のまとまりはできていたが、分裂割拠の時代が続いていた、一方その中でオーストリアを中心に勢力を伸ばしていたハプスブルグ家はその領土を新興勢力のプロイセンから守るために、フランスとの血縁関係を強めることでその勢力の権威付けと安定化を図っていた。ところで遠藤周作著のマリーアントワネットの冒頭にこの時期のストラスブーグについての記述がある。ブルボン朝に嫁ぐこととなった14歳の幼きマリーがパリに向かう途中、ストラスブーグで逗留をした情景の描写である。ここで話は余談となるが、ここで皆さんに地図帳を開いてウイーンからパリへの道を見ながらマリーアントワネットのパリ行きのルートを追ってもらいたい。まずはウイーンを出て一路西に向かう、山がちの道を馬車ですすむ、オーストリアを出ればバイエルン公国の首府ミュンヘンに着く、その後シュツッツガルトを経てストラスブーグにつく、しかしこの街は今までのドイツの街とは違う、ドイツ語は通用するが、ローアン城というフランス風の宮殿がある、正真正銘のフランス王国の都市である。マリーはここで長く滞在をして、パリ入りの準備をした違いない、というのはストラスブーグを過ぎれば後はモーゼルの山を越えるだけでドイツの影響はまったくなくなり、後は一直線にパリへの続く大平原に出るからである。マリーアントワネットは幼いころから独語以外にフランス語をみっちり仕込まれていた、これは将来の政略結婚を念頭に入れて覚えさせられたのである、したがいこのストラスブーグでのフランス語とドイツ語の両刀使いの生活は彼女にとっても快適であったものと思われる。将来への不安を減らし、期待を膨らませるに十分な滞在であったであろう。
さて本題に戻るが、この街はライン川沿岸にある都市として、フランスでありながら、ドイツの文化を色濃く持っている。それは人が国境を決める以前からある人々のあり姿である。具体的には木組みの家やドイツ風の料理、ビール、ワインなど、また近世ではドイツ宮殿やプロテスタント教会(サンポール寺院)などがある。しかしながら、場所がライン川の南部の西岸にあることより、フランス領土に組み込まれた。北に位置していた、オランダやベルギー、ルクセンブルグがドイツでもフランスでもない、独立国となったにもかかわらずである。その結果フランス文化の影響を受けた独特の文化を擁するに至った良き面と、反対に不幸にもその固有のドイツ的な文化土壌が強大化したプロイセン・ドイツをして自国の領土としての認識を持たせ、公然と領土侵略の対象となり、これが戦争へとつながり、住民に対して多大な被害が及ぶといった両面を持つこととなったのである。それだけにこの街が経てきた栄枯盛衰の過程は、過去にドイツとフランスが争い、苦難を乗り越えて融合してきた、歴史そのものであり、これが今のEU統合の基礎になったものであると確信を持った。具体的にそれはどういうことなのかについては、次号にて。。。。
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